伝統を繋いでいく 松徳硝子株式会社
どんな仕事にも、その道のプロと呼ばれる人たちがいる。
では、その人たちはいかにしてプロと呼ばれるまでになったのだろうか。そこに行きつくまでの道のりは決して楽なものではないし、並大抵ではない努力があったに違いない。
自分の仕事に対してその道のプロだと自信を持って言えるのか、そんなことを松徳硝子の仕事を見て、改めて考えるきっかけになりました。
商業施設が立ち並ぶ錦糸町。墨田区の中で、もっとも賑やかな場所に工場はあります。
松徳硝子は、1922年に電球用ガラスを製造する工場として、墨田区で創業。時代の変化とともに手吹きだった電球製造が機械製造に取って代わったことで、これまで主要だった電球からガラス食器・工芸ガラスの製造へと移行。それからも『手作り』にこだわり続け、数千種類ものガラス食器を作ってきました。
松徳硝子のガラスは、吹き棹(さお)と呼ばれる鉄製のパイプで、金型にガラスを吹き込む『型吹き』と呼ばれる製法を用い、無駄な動きのないリズムで一つ一つを丁寧に手作りしています。
型吹きには、長年の経験はもちろん、造形センス、その日のタネ(ガラス)の状態を見極める力が必要とされる。この熟練の技によって、機械では決して出せない繊細でぬくもりあるガラスを生み出すことができます。
打ち合わせスペースに通していただき、お茶が注がれたコップは、松徳硝子を代表する製品『うすはり』。この製品こそが、電球用ガラス製造で培った薄く均一にガラスを吹く技術と経験を最大限に活かして開発されたもの。
1ミリにも満たない薄さは、まさに芸術品。飲み物を直接持っているような感覚、ガラスがあることを忘れさせる爽快な飲み心地、それらは普段飲んでいるお茶をより一層おいしく感じさせてくれる。
手作りガラスは、安価な製品と比べ高価な品です。それでも、うすはりを始め松徳硝子のガラスは、国内外で高く評価され今では全国のセレクトショップや百貨店にも並ぶ人気商品です。
ガラス工場は、1階からガスで火を起こし2階にある窯に登らせ、8つあるツボの中でガラスを溶かし成形する。窯の温度は1300~1500度にもなり、ツボはおよそ40日で交換が必要となるが、常に火は炊いた状態になければ、すぐにガラスを作ることはできない。
日中の作業が終わり夜になると、窯炊きというガラスの溶融を専門とする職人が夜通しで管理をし、365日24時間ガラス工場が休むことはない。
常に炊き続ける窯のガス代や人件費といった固定費が莫大で、3~40年前は100社程あったガラス工場が減少してきた要因の一つがここにあります。そんな中でも手作りを貫き、高い品質のガラスを製造する松徳硝子の工場が移転を計画しています。休むことなく稼働し続けて来た工場が、この場所での役目を一旦終え、新たな場所で再スタートを切る。
これからもものづくり続けていくための大規模な移転計画とともに、新しい松徳硝子を一緒に支え次の世代へと繋いでいってくれる方を募集します。
お話を伺ったのは、代表の村松さんと専務の齊藤さんのお二人。
68歳になる村松さんは、見習い職人として46年前に入社。28年前に3代目としてこの会社を継ぎ守ってきた。しかし、工場周辺の環境はめまぐるしく変わっていきました。
「工場も老朽化が進み、このままここで30年、50年操業することは考えられなくなって来ました。加えて、この地域は様変わりして商業地域へと用途地域が変わってしまい、この地に工場を建て直すことができないので、昨年末に移転の検討を始めました」
続けられるならここで続けたいが、それは現実的には不可能。だから、できるなら移転先は墨田区で探したかったと言います。
「墨田区は創業地でもあり、当初の移転条件としていたのが墨田区内。ですが、工場ができる地域は非常に限られており、面積的にも最適な土地がなかなか見つからず、区外も探さざるを得ない状況で動いています。とはいえ、土地が見つかり工場を立て設備を入れてなので、移転には最低でも1年ほどはかかります」
現在も移転先を探している段階で、現時点で移転先がどこかは決まっていません。上記の理由から、墨田区でなくなる可能性が高いそうですが、今の従業員の方たちが通えるようにと、東京の東側を検討されています。
長年やってきたこの場所からの移転。勇気のいる決断だったのではないでしょうか?
「いろんな箇所が老朽化して、壊れるたびに応急処置をしてきましたが、これから先を考えたらどこかで限界が来るのでいいタイミングかなと。錦糸町は便利で愛着あって、続けられたら一番いいですけど、ここではもう再建できないことは分かってましたから」
今、この会社が抱えている課題は工場の移転だけではありません。人材不足は数年前から深刻な問題で、手が足りなければいくら注文があっても作ることができない。この先工場を続けていくための技術の継承も常に課題だ。
専務取締役である齊藤さんは、強い危機感を感じています。
「受注残は山のようにあっても、人手不足でどれだけ頑張っても生産が追い付いていません。だから、ベテランさんが定年で抜ける前に、計画的に若い子を入れて来ました。でも、入社当時は一生かけて一人前の職人になります!と言っても、人の気持ちは変わるし、若ければ若いほど色んなことに興味が行くので、すぐに辞めてしまったり、3年経ってやっとスタートというところで卒業してしまうことが続きました」
「すると、ものづくり工場は一日どれだけ作って、それを売ってといったことをベースに事業計画を立てていますので、人が辞めて生産量が数割も落ちると工場としてやっていけなくなる。当たり前のことですが、質を落としてとにかく数を作れば、ブランドが崩壊し注文自体が来なくなる。こんな状態が続いたらどこかで資金ショートします」
ベテラン職人が若手を育て、やがて職人へと成長していく。長きに渡りこうして技術のバトンは繋がれてきた。しかし、景気の悪化や人手不足で、その循環がいつしかうまく回らなくなってしまった。ガラス工場が減ってしまったもう一つの原因は、ここにもあります。
しばらく続いた人手不足の現場にも新しい仲間が加わり、以前のように生産が回り出したのはつい最近のこと。平均年齢も40を切るまでに若返りもできています。
しかし、経験10年未満の方も多く若い方が経験を積むまでには、まだまだ時間がかかります。さらに人件費は、極力、製造部門に割きたいという意向から、ピーク時は事務スタッフ6名で担当していた電話対応、総務、労務、経理といった仕事から、一部の商品の箱詰め業務も村松さんと齊藤さんの二人で対応している状況があります。
「物を作ることが最優先で、利益が出たら社員に還元したいという思いが強いです。その為にも、我々がやれることは兼務でやるしかないと思いやってますが、とにかくギリギリの状態ですので、中長期で考えるとゆくゆく役員のサポートをしてくれる人材が必ず必要です」
齊藤さんは、ものづくり工場の役員でいながら、一度もガラス製造の現場を経験していない唯一の存在。クリエイティブディレクターとして、ブランディングや経営企画・設計・営業など多方面でこの会社を支えている方です。
「ガラス製造の現場は、全く経験していません。ただ、それでもみんなに認められるには突出した何か。自分の場合は、経営企画やブランディング・デザイン、企画営業で力を発揮しないと、リスペクトしてもらえないし、発言権も得られないと思ってやってきました」
「加えて、入社前に村松とは4年程付き合いがあり、会社にもちょくちょく顔を出していたので、当時の幹部の方々とも面識があったり、村松もよく社員に自分の話をしてくれていたので、入社当時も風当たりは全く強くありませんでした」
北海道出身で墨田区とはゆかりのない齊藤さんが、この会社に入ったのは10年前。いずれは村松さんの後を継ぎ、4代目として会社を牽引する存在ですが、松徳硝子との出会いは意外なものでした。
もともとは、企業の広告を制作するグラフィックデザイナーとして活躍していた齊藤さん。デザイナーとして自身が魅力を感じない商品でも、仕事としてデザインしないといけないことに疑問を感じるようになった。
その後、経営者直轄部門でブランド戦略をジャッジできる仕事内容に魅力を感じ、デザインにこだわった世界的に有名な包丁を製造するメーカー『GLOBAL』に転職。そして仕事の一環で、自身が愛用していたうすはりを作る松徳硝子に取材へ来たことで、その後の人生を大きく左右されることになります。2006年のことです。
一方で村松さんは、2004年に売り上げの5割以上を占めていた観光地の土産物取引がなくなってしまい、窮地に立たされていました。廃業も考えたと当時を振り返ります。
「ただただ言われたモノを作って納めるだけでなく、良かれと思い商品展開などにもアドバイスをしていましたが、今となればそれが生意気と受け取られたのかなと思います」
「こんな工場で売り上げの半分がなくなったらそりゃ潰れます。倒産したら仕入れ先さんなどにも迷惑をかけるから、その前に自主廃業を決断したのを、業界の先輩が『やめるな!』と応援してくれたり、当時の幹部が給料はいらないとまで言ってくれて、それなら三カ月頑張ろう。それでだめならやめようと」
諦めずに続けた結果、『うすはりグラス』に脚光が当たり始め、一時の窮地は脱します。しかし、まだまだ状況は明るいものではありませんでした。
これからの会社を考えた時に、デザイン・セレクトショップなどへ販路も大きく変わって行くことを痛感し、これまで通りのやり方ではまた窮地に陥ってしまう。そんな時に出会ったのが齊藤さんだった。村松さんの熱意に押され、経営の立て直しを本業の傍らボランティアで4年間請け負うことになります。
「当時は、働いていた会社を辞めるつもりもなかったですし、日々多忙で時間も無い。加えて、今日の様に副業というものが一切認められない世の中だったので、自分に何かができるのであれば、ボランティアでどうですか?と。大変な状況を立て直すためにIT化やブランディングなどの手伝いを始めました」
「とは言え、酒飲みながらあーでもこーでも言い合う感じでやってましたね。仕事を抜けて村松と飲んで夜中にまた戻って本業の仕事して。寝れない日々が続きましたが、当時は体力もありましたし、いろいろな方々を紹介して頂いたり。楽しかったですよ」
齊藤さんから見て、この仕事はどんな仕事ですか?
「9割大変で、1割いいことがあるくらい大変な仕事です。例えば、グラスを使っておいしいと言ってもらえたらうれしいし、いいステージで使ってもらうとやっててよかった、やめらんないなってのがあるなくらいで、あとはほんと大変です」
「それでも、なんとかさぼろうとしてる人は一人もいないし、それぞれ能力に応じて頑張ってくれてると思うから、こっちも頑張んないとな!って気持ちになります」
近年、日本のものづくりや製品は高く評価され、海外の安価なものではなく日本で作られた良いものを使いたいという方が増えています。ものづくりが身近なものになりつつあるのかもしれません。
しかし、そこから現場の大変さが伝わることはなく、オシャレなショップに置いてある華やかなイメージを持っている方がほとんどです。身近になることが必ずしも良いことばかりではなく、働き手にとってはミスマッチが起こる原因にもなっています。
「メイドインジャパンのものづくりが独り歩きしてるのは、すごく感じます。大変さが言葉だけでは実感できてない。ものづくりに限らず、良いものを作るってやっぱ大変なわけですよ。手作業でやってる以上、楽になることはないし、大半の工程が機械化できないことは自分たちが一番分かっているから、やり続けるしかない」
「でも、ただ大変なだけで今の給料のままじゃ俺らも嫌だし、それを開き直ってそんなもんだとも思ってなくて、5年後10年後の進化と待遇改善のために常にもがいています。効率化は別として、手を抜いたら進化はないから、こういう仕事は緊張感と意思がすごい大事だと思います」
今回募集するのは『企画職』ですが、商品の企画をするのではなく、ゆくゆく経営側の一員として、この工場がものづくりを続けていけるようにサポートし、一緒に伴走してくれる方です。
「入社後3年くらいは、現場の下働き、検査、出荷をマストで経験してもらいます。ものづくりは、頭で分かるより体感した方が早いし、どういうクオリティのものをどこに出そうとしてるかが常に付いてきます。だからこれは、社内的にも対外的にもあとはその人のその後のためでもあります」
「あと、サポートと言っても将来的には上司部下としての関係だけでなく、パートナーと言える関係に成長してもらいたいなと願っています。そうなると、たとえ社員が休んでいても無理しなきゃいけない時はしないといけないし、率先して能動的に行動しみんな一緒に頑張ろうって思い合える組織にして行きたい。これは企画部門だけじゃなく全社的な課題です」
3年の下積みを経て、ようやくスタートラインに立つ。
長いようにも感じますが、下積みを経験し多くの学びがあったからこそ、経営する側になってもつくり手の気持ちが分かると村松さんは言います。
「これは俺の仕事でこれは違うってのはないんですよ。そういう人はこの会社では絶対やっていけません。小さい会社なのでね」
「自分もいきなり現場に入れられて親方に付いて、煙草を買いに行かされたりもしましたよ。でもね、くそって思ったけど、今はすごい役に立ってますよ。ろくなものはできないんだけど、理屈を肌で分かったり。夏はとにかく暑いから、少しでも涼しくしてあげたいなとかもね」
現場の下積みは、あくまで製造補助という立場。職人を目指し技術を取得していくわけではありませんが、意識を持って取り組んでいくことで、その後の成長は大きく変わってきます。
「現場のいろはのいは、吹いたガラスを炉に持って行く運搬です。1日に1600~1700個を作るので、ひたすら歩きます。それを1年ほどやってもらおうと思ってます」
「そんな中で、めんどくせーな、早く帰ってビール飲みてーなんて意識でやるのと、目の前にお手本となる先生がいて一挙手一投足見て感じながら学ぶのとでは、その後が180度変わります。段取りや準備、意識、みんな体だけでなく頭でも仕事しなければならない。それを分かるには現場が一番いいと思っています」
常に一定のクオリティでもの作りを続けるには、一定のリズムが欠かせない。実際に、工場を見学させていただいて感じたのは、誰一人として無駄な動きをしていないということ。一流の仕事は、とても美しくそこから学ぶべきことはたくさんあります。
お二人から見て、どんな方がこの会社には合うでしょうか?
「俺らは、お互いにバカだなこいつって思うことも多々あるし、子供でもおかしくない年の自分に、時にはガンガン厳しいことを言われて、このガキ!って思うこともあると思います。でも、尊敬してる部分は心から尊敬しています。それがあるからやれてて、突出した何かがあれば人はその人に魅力を感じると思っています。良いところ悪いところみんなあって当然だけど、何かで認めてもらわないと誰も付いてこなくて、それは実行するしかないので人物像は固定していません」
「ただ、お金の話をできない人はプロじゃないと思います。幾らクリエイティブに特化していても、費用対効果を考えられなきゃ、なにやってんの?って話になる。個人でこれだけ給料が欲しいからこういうことをします!というスタンスや、企画した取り組みにより会社にどれだけの利益をもたらせるのかを言えるのがプロな訳で、苦手だろうが得意だろうが数字への意識は常に重要。慈善事業でも文化活動でもなくビジネスをしてるわけで、お金や儲かる意識がきちんとあり、説明ができて考えられる人が絶対必要な要素だと思います」
松徳硝子は、この先どういう会社を目指していくのでしょうか?
「良いグラスを作るという目標は当たり前で、とにかく儲かる会社にしたいです。伝統はそういうことだと思うし、それを今後も続けていくことが夢でもありビジョンで、その中で松徳硝子が不動の地位にいてほしい。ただ、それは甘くないと思っています」
会社を存続させていくには、技術や伝統を繋いでいかなければいけません。
決して一人でできることではない。
ものを作る職人たちがいて、それを陰で支える人たちがいる。商品を買ってくれる取引先や、使ってくれるお客さまもそう。多くの人でこの伝統は繋いでいくものだと思います。そんな伝統を、作る側の一員として、新しい工場でも一緒に繋いでいってほしいなと思います。