2015.04.03(金)

鋳物に命を宿す 東日本金属株式会社

こちらの求人は募集が終了しました。
ご応募ありがとうございました。

東日本金属

工場は自動化され、海外などで大量にそして安く作ることができるようになりました。
そんな時代に、大量製造品ではなく数個から数百個程度の製品を一個ずつ丁寧に作り込む。
墨田の町工場にしかできない、モノづくりがここにはあります。

東日本金属

墨田区立花にある東日本金属株式会社は「鋳造」という昔ながらの加工方法で「鋳物」を作っている会社です。

一般的な鋳物屋は、鋳物までを作ることができても最終的な製品にするまでのノウハウを持っていないところが多いが、この会社は鋳物から最終的な製品にまでできるところが強みだ。
この鋳物を製品化させる仕事、鋳物に機能を持たせ製品化する職人さんを募集しています。

東日本金属

東日本金属株式会社は、大正7年(1918年)創業の鋳物専業メーカーだ。

鉄・アルミ合金・銅・真鍮などの金属を、融点よりも高い温度で熱して液体にしたあと、型に流し込み冷やして固める加工方法が「鋳造」と呼ばれ、固まってできたものが「鋳物」だ。

東日本金属

鋳物場の建物は、戦後すぐの頃、創業の先々代社長が木造建物の醤油工場を移築してきたもので、屋根までの高さが、溶湯から出るガスや熱を逃がすのに適しているそうだ。
独特な雰囲気を醸し出す工場は、雑誌の撮影にも使われることも多く訪れた人からは歓声が上がることもしばしば。

東日本金属

製造される製品は、音楽スタジオや電磁波シールド室などに設置される密閉扉の締め付けハンドルやドアの蝶番(ちょうつがい)、窓金具など。なんと防音扉用のハンドルは、業界シェアが7~8割もあるんだとか。

また、最近では、歴史的建造物の金物の復元も手がけられている。
明治安田生命館、旧岩崎邸、三菱一号館、東京国立博物館表慶館、KITTEなどの金物もここで手がけられている。

東日本金属

この場所で生まれ育った、四代目 小林亮太さんにお話を聞いた。
小林さんは、この会社に入って十四年目になる。

「弊社は、”鋳造部門”と”加工・組み立て部門”の二つに分かれていて、今回募集する仲間は、加工・組み立ての加工場で働いていただく方になります。鋳物を加工して製品にするまで、鋳物から先の仕事です。」

「今この部門は、慢性的にマンパワーが足りていない状況なんです。専属スタッフが一名しかいないので、鋳物場のメンバーが自分たちの作業が終わったあとに手伝わないといけないほど、鋳物から先の作業が詰まっています。そこを常に二人一組の体勢にするため、今一人でやってくれてる方のパートナーが欲しいと思っています。でも、かといって手取り足取り教えられる状況でもないので、手伝いながら一緒に覚えてくれるような人がベストです。」

東日本金属

冒頭でも書いたように、ここの強みは鋳物からできた物を、最終的にエンドユーザーに届けるまでの”製品”として形にできる点だ。

「うちは鋳物の方を取り上げられたり、注目されたりすることが多いんですが、実は加工する作業のほうが工程は多いですし、製品にまでできるってのはうちの強いところでもあります。他の鋳物屋は荒加工まではやっても協力工場を回して製品にまでできるノウハウがあるというところは少ないと思います。」

今では、墨田区や葛飾区に協力工場が30社ほどあるそうだ。

東日本金属

この仕事のやりがいは?

「鋳物って一個一個が同じ形じゃないので、コツが必要だしそれがやりがいだと思うんです。本当に鋳物のことや特性を分かってないと加工するのってなかなか難しいと思います。」

東日本金属

今この加工部門で働く小池さんは、元々はこの会社の下請けの会社にいたそうだ。
そこが廃業するときに、じゃあうちで働いてくれないかと誘われたのは、もう十二年も前のことだという。

小池さんにお話を伺った。

「下請けで受けていた時は、この会社で唯一の大量生産的な仕事をやっていました。
でも徐々に仕事が減っていき、最終的にはこの会社の一角を借りて仕事をしていたんですが、いよいよ辞めるって時にこの会社に拾ってもらいました。」

小池さんから見て、小林さんや社長さんはどうですか?

「ここの会長から社長、息子さん、みんないい人ばかりです。俺にとっちゃ恩人みたいなもんです。特に会長、社長にはほんとにお世話になったんで…。他に行くあてもないので、この会社に骨をうずめるつもりですよ(笑)」

東日本金属

機械には、自分たちが使いやすく、効率が上がるようにこういった治具を手作りで作ったりすることもあるそうだ。

「自分の使うものは自分で作っちゃうような人が多いです。何かを買うってよりは鋳物で型とって作ったりして、工夫する人が多いかもしれません。」

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ちょうど作業中だった製品を見せてもらった。左が加工前で右が加工後だ。
ネジが動かないためのピンを打つための穴を開けたり、メッキをつける加工を施したんだそうだ。

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「一工程が終われば、次の段取りをする必要が有るため、一日同じ作業してるってことはまずありません。自分で工夫して効率的なやり方を考えてやっていかないといけません。」

100ロット単位での生産もあるそうだが、他の工場に比べると一つ一つの生産量は少なくその分種類が多くやることは多い。

「製品によって各担当がいるので、担当者と納期のすり合わせを毎週月曜にして、一週間の流れを決めます。どうしても突発的な依頼が入るので、そこは臨機応変に対応したり、絶対的な納期を守るものと大体これくらいにという仕事があるので、優先順位を決めて製造していきます。
短納期を要求されるところが多いですし、どこも欲しい時期って被るので、集中して忙しいときはありますが、焦ったり根を詰めすぎると怪我や事故に繋がるのでそのあたりは余裕をもってスケジュールを取って進められるようにしています。」

東日本金属

小林さんから見て、職場の雰囲気はどうですか?

「離職率はうちはほんと低いですね。働いてくださってる方の中には、僕の幼馴染のお母さんだったり、幼馴染の奥さんがいたり、弟の同級生だったり。そうゆう家族経営的な雰囲気でやっていますし、同じ釜の飯を食べるというのを非常に大事にしているので、僕が客観的に見ても居心地がいいとは思うんです。だって、僕なんて工場の人に食わせてもらっていたようなもんですもん。」

鋳物場でバーベキューやったり、新年会や社員旅行には外注先さんにも声をかけてみんなで集まることも多いんだとか。鋳物の熱を利用した焼き芋は格別で、よく職人さんは自分で芋を買って来て焼いてるそうだ。

東日本金属

この仕事の大変なところは?

「体力的なことはありますね。立ち仕事ですし、重たい荷物を持ったり、油断すると機械で怪我することだってあります。
鋳物場はよく夏が辛そうなイメージを持たれますが、実は冬の方が辛いんです。砂が水分含んでるので手は割れるし、砂が乾くとだめなので暖房を入れられないので、足元はめちゃくちゃ寒いですし。でも、そういう意味では加工場の方は暖房もあるし、空調もあるのでマシかもしれません。」

東日本金属

今では従業員は十七人にもなる。

「他にやることがなかった。」と語る、小林さん。

「漠然と家の仕事をやるんだろうなっていうのはありました。いい加減しっかりしないとなぁって気持ちになってなんとなく働きはじめたんです。それに比べて弟は、この仕事がやりたいという想いではじめていました。」

小林さんの5つ年下の弟さんもここで働く一人だ。

「弟は、一度ここを手伝いながらお金ためて、一人でいろいろ国内を旅をしに行ったんです。その時は出発前に、俺は家は継がない。別のところで働くといって出ていきました。逆に僕は、外の世界を見ずにここの仕事を始めたので、じゃあ代わりに外を見てきてくれよと行って送り出しました。」

「旅の中で色んな人に会って、色んな話を聞いてきて、自分の家がいかに他の人じゃ経験できないことをやってるかってことが外を見て分かったみたいで、やっぱ俺はこの仕事を兄弟で一緒にしたいって、戻ってきたその日に言ったんです。
僕としたら弟以上に強い味方、信用できる仲間はいないので、びっくりしたってのが率直な感想でしたけど、じゃあ一緒に頑張ろうって。
親父も驚いたでしょうし、大変な仕事だと思いますが、そうゆう過程があったので親父としても戻ってきたってのがうれしかったと思います。」

今では、鋳物場の方を亮太さんが、加工の方を弟さんが、そして一昨年から事務に妹さんも入られて、兄弟三人力を合わせてやっている。

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小林さん自身はなんとなくはじめた仕事だったが、今ではここで働いて本当に良かったと思っているそうだ。

「鋳物場がお年寄りばかりの職人さんになって、外注先もどんどん歳を取って無くなる、そんな先が見えない状況の中で祖父が、”うちから鋳物がなくなっちゃうね。あと何年かならお前に教える体力があるから、俺が持ってるものをお前が全部引き継いでくんねーか”って言ったんです。」

「でも、確かにそのタイミングで鋳物場に入ってなかったら、鋳物場自体がもうなかったかもしれないですし、よそにお願いしていたうちでは得意ではなかった仕事も、祖父と私で試行錯誤して自分たちでできるようにやりはじめたんです。そしたらお願いしていたところも次々に廃業していって、本当にあのタイミングで引き継ぐ決心をしてよかったと思います。」

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「でも、そうやって兄弟で継いだり、若い方を入れたりして若返りをはかってはいますが、高齢化のスピードには追いついていません。若い人が入っても、若手だけでは技術が追いついていないんです。一人前になるには、最低でも5年はかかりますし、協力工場も育てるくらいの気持ちでやっていかないと今の水準のモノづくりをずっと続けていくというのは、厳しいんじゃないかって実感しています。」

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そんな想いから、すみだファクトリー(通称:スミファ)などにも積極的に参加し、多くの方に鋳物のことや工場のことを知ってもらおうとしている。

「工場って閉鎖的なイメージがありますよね。昔から付き合ってるご近所さんでも、実際なにやってるか知らないって人もいるので、そうやって目に触れてもらうことで、こっちが得ることって絶対あると思うんです。人に説明するって自分でちゃんと理解していないとできないことですし。まずは何をやってるかを知ってもらわないと何もはじまらないですし。」

「ツアーで来る人はモノづくりに興味がある人もいれば、自分の家のタンスの取っ手が壊れたから直してくれないかっておばあさんも来たこともありました。鋳物で作ってあげて修復してあげたんですが、すごく喜んでくださってとても印象深かった出来事ですね。」

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率直に、どんな方と働きたいか小林さんに聞いてみた。

「働く環境って厳しくなってるって聞きますけど、一緒に長く働ける仲間が欲しいんです。ものづくりをまじめに一緒にやって、一緒に喜びを共有できる。そうゆう仲間ですね。仕事がバリバリできるだけの人が欲しいわけじゃないんです。ただ仕事を探してるって人よりもモノづくりに興味がある人なら、経験・未経験は問いません。未経験で入られた方も多いです。」

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「スミファの他には、”仕事旅行”って企画にも参加させていただいてます。大人の働いてる方がわざわざ有給とってお金を払ってうちに工場見学に来られるんです。大手の会社で勤める方もいますし、女性の方が多いですね。」

そういったイベントや企画にも積極的に参加している小林さんだが、元々はそういったことには否定的だったそう。

「僕はただ仕事してればいいと思っていました。仕事の時間に抜けてまで行く意味が分からなかったんです。でも、すみだ塾で色んな人と話したことがきっかけで新しい価値観が見つかりましたし、親父もおじいさんも元気な今だからこそできることがあると今では思っています。」

※フロンティアすみだ塾中小企業の事業を継承するなど、地域産業の次代を担う若手人材の育成を目指す、私塾形式のビジネススクール。小林さんはこの第六期生。

 

東日本金属

この会社は今後どうなって行きたいですか?

「いいものを真面目に作り続けていきたいですね。お客さんが求めているもの、お客さんが本当にほしいもの、頼んでよかったと思ってもらえるものをちゃんとした仕事でやりたいです。機械のオートメーションでできないところなので、そのための課題をどうクリアしていくかがほんとに大変なんですけどね。」

「だから、規模を大きくするとか、生産量を思いっきり増やすとかは僕は考えていません。
何でもできますよって言うのもこれから先、限界が出てくるかもしれないので、規模を縮小しても自分たちの得意とするフィールドで、さらに特化して強みを出していくのもありなんじゃないかと考えています。」

一点一点手間ひまかけて丁寧に作る。これはモノづくりをする上では当たり前のことだが、それができていた工場は今では少なくなってきている。
この技術を受け継ぎ工場を守っていくことは、単なる仕事ではなく”鋳物”を”墨田”をそして”日本のモノづくり”を支えることにもきっと繋がると思う。

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