原動力に変える力 株式会社霧下そば本家
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ご応募ありがとうございました。
会社に勤めながら空いた時間を有効に使い、別の仕事や活動をして仕事に繋げたり、やりがいを持とうとする人が増え始めています。それは決して従業員に限った話ではなく、経営者も同じです。
仕事のためにやりたいことを諦めるのではなく、やりたいことを仕事の原動力に変えていく。
夢も、仕事も、どちらも諦めずに走り続ける経営者がいます。
創業245年の『株式会社霧下そば本家』は、8代目に代を引き継ぎ、その長い歴史の中でも特にユニークな経営をしています。これまで積み重ねてきた伝統を重んじながらも、それに臆することなく。
この歴史ある会社で、一緒に働く方を募集します。
自分らしく仕事も趣味も本気で楽しみたい方、ぜひ読んでみてください。
東武亀戸線 小村井駅から徒歩5分ほどのところにある、『株式会社霧下そば本家』は、1772年創業のそば粉を製造・販売する会社です。
新潟で田光そば製粉所として創業した同社は、昭和8年に先代が考案した『霧下そば粉』を登録商標にして販売を開始し、その名を全国に広めました。そして、昭和60年に社名を株式会社霧下そば本家に変更。現在は、墨田区文花一丁目に本社兼第一工場、文花三丁目に第二工場を構え、日々そば粉の製造をしています。
事務所を訪れてみると、外観は至って普通のビル。1階の事務所はガラス張りのカラフルな内装は、老舗というよりオシャレなお店のよう。想像していた印象とは随分と違います。
まずは、8代目社長の田光誠さんに今回の募集について、お話を伺ってみます。
「去年の8月頃に定年退職で一人辞めたんです。工場長と営業をやって統括してた方だったので、製造の方と配達で人手が少し足りなくなってしまいました」
どんな方を求めていますか?
「そばにとにかく興味があって、そば打ちをしたいとか、できるようになりたいと思う向上心のある人です。人が辞めての募集ですが、一時しのぎではなく、長くじっくり働いてくれるいい人を求めています」
長い歴史を積み重ねてきた会社だから、田光さんは昔から後継ぎとして修行を積まれてきたのかと思いきや、実は全く継ぐ気がなかったそう。
「ぼくは、音楽をやってたんですよ。一応プロのバンドマンで、アニメの音楽とかCMとかを作ってました。だから、ここを継ぐ気はぜんぜんなくて入ってまだ10年くらいです」
「姉がずっとやっていて継ぐもんかと思っていたら、突然辞めたいと言い出しまして。続けても会社は畳む方向でやると言うもんだから、それはさすがにまずいから継ぐことにしたんです」
それがきっかけで音楽の道からは足を洗って、家業に専念されたんですね。
「いや、辞めてはないですよ(笑)今でも週末にはやっていて、こないだも結成20周年ライブをしたところです。活動は仕事が終わってからですが、音楽も片手間ではなくてどちらも本気です。サックスは奥さんで、ドラムはラーメン屋、ベースはゴールデン街でお店をやっていて、メンバーほとんどが社長。映像もうちのスタッフが撮影してくれてまして」
サックスが奥さんで、撮影をスタッフが…?
隣で話を聞いていた奥さまで副社長の佳世さんも、実はバンドのメンバーのひとり。
佳世さんは、この会社に嫁入りのタイミングで入り、田光さんよりも先に働き始めていたそう。今は、主に会社の経理関係を担当されています。
「主人はずっと音楽をやるものだと思っていて、会社のことにはぜんぜんタッチしてほしくないくらいでした。好きなことをやってもらいたくて、私がここに入ったんですけど、先代が亡くなったこととかいろいろ事情もあって入ることになったんです」
老舗そば粉屋さんとバンド。全くの異業種ですが、今では2つの仕事をうまく組み合わせ、相乗効果を生み出そうとしているそう。
「そばの販売や宣伝に繋げたいんです。そばの曲も作りましたし、ライブイベントの時も2軒のお蕎麦屋さんに出店してもらって、お蕎麦やお酒を出したら完売で、お店の方も楽しんでくださったので、今後もこういうことはやっていきたいなと思っています」
佳世さんから渡されたCDは、誰もがよく知るアニメの主題歌のもの。本気で音楽にも取り組みながら、会社も経営する。お二人ともさらっとそのことを語っているが、その決意と行動は簡単にできることではないように思います。
現に、当時会社を継ぐことを田光さんが決意した時には、既に先代は亡くなられた後。
技術を直接継承できなかったことで、今もなお大変なことは多いと言います。
「親父は、ぼくが20代の頃に亡くなったんです。なので、親父を飛ばして母親が祖父から会社を継いだんですが、工場に入ってないので直接は受け継がれてません。でも、霧下そばという名前は祖父が付けたもので、製法自体は今でも一貫して変わっていません。それは、祖父がいた頃の従業員さんが、今も知恵を出し一緒に試行錯誤してくれているからなんです」
味が変わったと言われることもあるのでしょうか?
「それはあります。絶対に変わってないはずなんですが、やっぱり代が変わると言われることもあります。イメージもあるので、それは乗り越えていくしかないですね」
会社に入った当時は、従業員の方と衝突があったりはしましたか?
「それが、ぜんぜんなかったんです。よく決心してくれた!ありがとう!と抵抗なく迎えてくれて。みんな待っててくれたんだと分かって、それがやっぱり一番よかったし嬉しかったですね」
事務所の一角には、販売用のお店が併設され、定期的に購入に来られる方の姿があります。
創業245年と聞いて、とても敷居の高い会社を勝手に思い浮かべていましたが、田光さんたちの気さくな感じと、お客さんが気軽に訪ねて来る雰囲気はちょっと意外です。
「昔は、家の玄関みたいでのぼり旗も出さず、知ってる人だけが買いに来ていたので、そういう雰囲気はあったかもしれません。でも、どんどんオープンにしないとこの業界は敷居が高くなるばかりなので、7年ほど前に改装したんです」
「町のお蕎麦屋さんって、ちょっと敷居が高くて、すりガラスになっていて入りづらい。入っても量が少しだからお腹いっぱいにならない。そんな悪循環を払拭したいし、もっと身近なものになってほしいんです」
こうしたイメージ改革に乗り出した一因は、近年お蕎麦屋さん自体が減少していることが大きい。代替わりで後を継がず、町のお蕎麦屋さんの存続は厳しい状況にあります。
「肉そばのような流行りもできて、新しいそばを出すお店や食べる人は増えているはずなんです。でも、朝早く仕込むのも大変ですし、その日に出なかったそばは捨てなきゃいけないので、昔ながらのお蕎麦屋さんはどんどん減っています」
具体的な仕事について、まずは工場の仕事を工場長の飯沼さんに伺います。
入社後は、粉の仕事のことをしっかり理解するため、まずは飯沼さんに付いて工場の仕事を覚えます。お客さんに説明ができるまでになったら、営業へとステップアップしていくことになります。
飯沼さんは、ここで働いて約30年の大ベテラン。元々、この会社に材料を運ぶ運送屋さんでしたが、4年ほど運転手としてここに派遣されたことがきっかけで、そのまま働くことになったそう。先代社長とも一緒に働いていました。
田光さんのことは高校生の頃からご存知で、いつか継いでくれることを心待ちにしていた一人です。
「よくギターを背負った姿を見てましたから、その印象が強いんですけど、当然継ぐものだと思ってました。うちは歴史があって重みもあるので、やらないわけにはいかないですから(笑)」
飯沼さんは、どんな方と働きたいですか?
「趣味とか遊んでる人の方がいいかな。ぼくらは釣りがすごい趣味で出勤前でも行ってしまうくらい。そういうのは、働く糧みたいなものになるじゃないですか。この仕事は、粉は重いですし真っ白にもなるので、責任感のある人じゃないと務まらないです」
「ただ、仕事量はそんなに多くなく17時にはほぼ終わるので、自分の時間は作れます。土曜日出勤も12月の繁忙期に1~2度あるくらい。テニスとかみんな趣味があるので、17時半にはもう誰もいないですよ」
しかし、仕事を見学させていただくと、仕事量は多くないが種類が多い。ざっくりお聞きしても、粉づくり、そば打ち、機械メンテナンス、掃除、梱包、出荷など。いろんな作業があり、さらに少人数でひとりひとりの役割が大きい。
粉づくりは、環境や時代に合わせて変化を求められ、同じことの繰り返しでできるものではない。石臼は非常に繊細なもので、摩耗して粉が出なくなったり、湿気の多い日などで詰まることもあり、手作業での調整も多く常に目を離すことができません。
「穀物なので天候によって全然違います。ぜんぜん取れず材料がない時もあったり、黄色い原料が入って、青みが足りないと言われることもあります。うちは味重視だったんですが、そこは頑なになるんじゃなくて、時代とともに変えていかないといけません」
乾麺は、山形のOEM工場で製造を行う他、一部工場内の製麺機でも作られています。今このそば打ち業務は飯沼さん一人で担当されているため、今回募集する方にもゆくゆくはお願いしたいそうです。
『そば打ち』と聞くと、技術や経験が必要に思いますが、未経験からでもできるのでしょうか?
「その人を見れば分かります。性格も出ますし。でも、毎日練習すれば1ヶ月もあればできます。職人の仕事は、よく3年と言いますけど、そこまでを求めてるわけではありません。その場で提供するわけではないので、丁寧に作って完成品がちゃんとなってればいいんです。時間がかかっても失敗してもいいので、そういう意味ではできると思います」
新しく入る方のもうひとつの仕事が、営業。
飯沼さんたちが一生懸命作られたそば粉を、取引先のお店へと配達する仕事です。
営業の仕事については、主任の鴨志田さんに伺います。
鴨志田さんがこの会社に入社したのは、今から10年前。28歳の頃まではイタリアンの飲食店で厨房を任されていましたが、拘束時間の長い職場だったこともあり、結婚を機に以前から興味のあったそばに関わる今の仕事に就くことに。
営業として主に外回りをする鴨志田さんも、入社してすぐは仕事を覚えるために工場に入り、製造に関わっていたそう。仕事に慣れるまでに大変だったことはありますか?
「工場は、粉の重さに最初は苦労しました。1ヶ月もすれば慣れますが、最初の一週間くらいは大変だと思います。営業では、老舗さんとの付き合いですね。繊細な方が多いので、言いすぎてもだめだし言わなくてもだめ。白黒ないのでどんなことしても怒られますし、怒られるのが仕事だと思っています」
営業の主な配達エリアは、都内と千葉、埼玉、茨城など。取引先へ商品を配達するルート営業になります。
「新規の飛び込み営業は、この業界なかなか難しく向こうから来るのを待つしかありません。なので、こちらからアプローチするとなると今の時代ネットになるわけです。ホームページを見て良さそうだったから電話しましたって方は増えてますね」
鴨志田さんが制作した会社紹介動画
鴨志田さんにとって、田光さんと佳世さんはどんな方でしょうか?
「社長と副社長ですけど、ほんと友達みたいな感じです。前社長の息子さんだ!って感じはなくて、最初からフレンドリーにしてもらえたので壁はないし、逆にこっちがやりすぎなくらい気は使ってないです」
その言葉どおり、新しい提案を次々にして、営業や工場の枠を飛び越えて活動をしている。そのひとつが、ポスターや会社PR用の動画といった宣伝ツール。これらのほとんどを鴨志田さんが制作しています。また、田光さんのバンドの動画も撮影をしているそうです。
「今までいろんな部分でずさんでしたが、その状態でも会社は成り立っていたので、経営基盤は硬いんだと思います。だから、やり方を変えればもっと広がるので、新しいことはどんどんやりたいと思います」
本社事務所の奥にある第一工場に案内してもらうと、整理整頓が行き届きとても清潔な環境です。
しかし、昔からこうだったわけではありません。以前は、雑然としていましたが、鴨志田さんが導線を考えて配置変えを行うなど、工場の改善にも取り組まれてきた結果だそうです。
そば粉は、玄そばと呼ばれる原料を使うのですが、収穫したばかりのそばの実は、黒っぽい殻を被っているため、この殻などの不純物を取る工程を第二工場で行う。
そうしてできた原料を第一工場の3階へと持って行き、上から下へと製粉の工程を順番に経て、そば粉になったものが1階で梱包され、取引先へと出荷されます。
2階には、そばの実を挽くための石臼がフロア全体にずらりと並び、音を立てながらゆっくりとそば粉が挽かれています。
できたそば粉は、梱包されそのままお店に配達される他、乾麺にして取引のあるお蕎麦屋さんなどでお土産用としてやネットで販売をしていますが、それ以外ではほとんど買えるところはありません。
販路を広げない大きな理由の一つが、量をあまり多く作れないのと、原料自体がいくらでもあるわけではないということ。
石臼は、そばの実が入る溝の構造を徹底的に研究し、どれくらいの回転数が一番最適かを何度も試して見つけだした、そばの風味を損なわないベストな製粉法で行われており、味と香りを極限まで引き出します。しかし、その一方でこのやり方にはデメリットがあります。
それは低速回転の石臼では、1時間の生産量が約600~800グラムほどしかありません。それを補うためにこれまで何度も増設を行い、現在では60台もの石臼が稼働していますが、それでも生産量には限界があります。
製粉方法には、石臼挽きの他に、ロール挽き(機械挽き)と呼ばれる方法があります。
ロール挽きの場合、生産効率が良く、粒子の大きさが均一に揃いサラサラとした粉になります。しかし、そば粉はとても熱に弱く、摩擦が起きるロール挽きでは製粉時の熱で水分と風味が飛んでしまいます。
一方、石臼挽きはゆっくりと製粉するため熱が出にくく、粒子の大きさに差が生まれ隙間が少ないことで、霧下そばの特徴でもあるしっとりとした粉が生まれます。これは、まとまりにくい十割そばでも、そばを打つことができる優れたそば粉です。粉に触れてみると、確かに水が混ぜてあるかと思うくらいしっとり。
そして、霧下そばのおいしさの秘密は、もうひとつ手間のかかる作業にあります。
「普通は、外皮だけを取り除いた状態で石臼にかけます。うちは外皮を取り除いた後、一度割って中の乾いた粉の部分をふるいで取り除きます。ひと手間増えますが、これでおいしいところだけを挽け、味はもちろんですが、中の部分は消化にあまり良くないので胃もたれしにくくなります」
この方法をする製粉屋さんは少ないのでしょうか?
「これを考案したのは祖父で、他にはありません。2回挽くのと同じくらいの作業なのと割る作業はすごくめんどくさいので、すごく手間がかかりコストが合わないんです」
第二工場は、本社から車で5分ほど行ったところにあります。石臼が並ぶ本社工場とは対象的に、初期工程やロール挽きを行うため、大型の機械が中心です。
この会社の従業員は、35~40代が中心。全体では12名で、営業が4名、第一工場も4名。そして、第二工場はたったの2名のみ。目の離せない石臼に比べ、自動化の部分も多く少人数で回すことができます。
これだけの設備を備えた霧下そばは、オリジナルのレギュラーの粉だけでなく、取り扱い店ごとのオーダーメイド品にも柔軟に対応していて、こうした特注品はお店自体の特徴にも繋がるそうです。
「黒っぽいとか白っぽいものにするといった別注品は、ものすごい数をやっています。新規のお蕎麦屋さんは、点々を入れたいとか、殻を少し入れて欲しいといった要望も多いです。こうした要望は小さな会社だからできることことなので、全てお受けしています。点々が入っていたり、色が他と違ったりすれば、それがそのお蕎麦屋さんの特色になっていくので、できる限りご相談には乗らせてもらっています」
3階にある休憩室では、昼食の仕出し弁当をみんなで食べるそう。スカイツリーが見える屋上には、鴨志田さん自作のテーブルが置かれ、休憩時間にのんびりと過ごす姿が目に浮かびます。
みなさん、とても距離が近くアットホーム。
この雰囲気を特に大事にされ、そしてスタッフのことを常に気にかけているのが、奥さんの佳世さん。ここでの人間関係についてこんな風に話してくださいました。
「職人さんは、背中を見て仕事を覚えろなんて昔は言いましたが、そういう教え方はやりたくないんです。昔からそれがずっとやりにくかったし、今は時代も違うので、ちゃんと教えて育ててあげないといけないと思います。そういうことがやっとできる環境にもなりましたし」
「みんな寛大で優しいんですよ。私が失敗して商品が到着しない時には、配達に走ってくれて『隠されて間に合わなくなってから打ち明けられてもどうにもならない。失敗は誰でも絶対あるから、カバーできる失敗はしていい』と言ってくれて。個性的でびっくりしたり多少のことはありますが、その分他の会社よりもうちは距離が近いです。だから、逆にそういう距離感が苦手な人はきついかもしれません」
最後に、今後の目標を田光さんに伺いました。
「そこは考え中なんですよ。でかくなりすぎるのも嫌ですが、かといってこのままだとどんどん下がってしまうので、なにか広げていけることを考えていきたいです。そばはアレルギーが今までずっとネックでしたが、組合でアレルギーのないものを研究していて、何年後かにできると言われています。その時にそばをもっと盛り上げていければと思います」
やりたいことを原動力に変え、そしてそれを仕事に繋げていく。
一見すると、そばとバンドは全く関係がないようにも思えますが、そうした活動があるからこそ踏ん張れることや、生まれてくる斬新な発想もきっとあるはずです。
原動力に変える何かを持つ方は、そのパワーをここでぶつけてみてほしいなと思います。