2021.11.24(水)

成果を実感できるものづくり 岩澤硝子株式会社

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ご応募ありがとうございました。

※この記事は、2020年3月2日に掲載したものを再編集し、再度募集をしたものになります。撮影した写真やインタビュー内容は、その当時のものです。予めご了承の上、ご応募ください。

岩澤硝子

どれだけ機械や人口知能が発達しても、人の手でなければ生み出せないものもある。

手作りで作られるガラス工場では、人の手が欠かせない。それも、たくさんの人手が必要なのは、昔も今もそしてこれからも変わらない。

機械にはできない仕事。

ガラス工場を存続させていくには、あなたの力が必要です。

この仕事を志す若者の減少、熟練の技術者の高齢化など、ガラス工場を存続させる上で解決していかなければならない課題がたくさんあります。

この状況を打破すべく、内部組織から大きく変える取り組みが始まろうとしています。

岩澤硝子株式会社

墨田区の地場産業でもある、手づくりガラスを作る『岩澤硝子株式会社』は、1917年より江東区猿江で創業。車やバイクのヘッドライトに使われるレンズや醤油注ぎを製造していました。

その後、戦争による企業合同が起こり一時稼働を中断し、1951年に現在の墨田区立花の工場で再開します。しかし、これまでの下請け仕事では、納期も品質も厳しい上に、安価な価格を強いられ、働いてくれている社員を食わせていけないと、先代がレンズの製造を大幅に減らす改革に踏み切ります。

そこで、これまで得意としてきた『金型製法』を活かして作れる『灰皿』に先代は目を付けます。その当時、たばこが売れていたことから関連商品として灰皿の需要も多く、それだけ作っていれば食べていけるほどの売り上げになりました。

そこから新しい製法を導入し、お皿や鉢などの食器、調味料入れ、花器、トロフィーや表札、雑貨品まで多色多品種を手がける今の岩澤硝子のスタイルとなりました。

岩澤硝子

『金型製法』は、ドロドロに溶けたガラス種を金型に流し込み、プレス・スピンドル・圧迫と呼ばれる成形法を用いてガラスを作ります。この製法は、レンズや調味料入れに適しており、でき上がったガラスは厚手でしっかりしています。

厚手ガラスの代表的な商品である醤油注ぎは、今でも年に数万本を製造する昔から変わらない不動の定番商品です。そして、蓋をネジ式からすり口に変えた液だれしにくい新タイプは、蓋だけで年間8~10万個程度を製造し、2010年には墨田区の地域ブランド『すみだモダン』に認定されました。

今では、全国の飲食店で使われる、醤油・ソース・ラー油・辛子・胡椒などの調味料入れのなんと7割ほどを手がけ、私たちの生活には欠かせない存在になっています。岩澤硝子のことを知らなくても、ここで作られた製品を知らずに使っているという方は多いはずです。

岩澤硝子

代表の岩澤さんは4代目。町工場の社長としてはとても若く39歳という年齢で社長に就任したのは、お父さんが2018年に亡くなられたから。

もともと岩澤さんは、一般企業でサラリーマンとして働いていて、会社を継ぐつもりはなかった。

「前の仕事をたまたま辞めることになった時に、会社でパソコンを使える人が必要だし営業も必要で、父からやってくれないかってことで入りました。ただ、そんなつもりは毛頭ないまま若い頃を過ごしてきてしまったので、入った時は全くの世間知らずでした」

岩澤硝子

先代であるお父さんは、東京伝統工芸士の資格を持ち長年にわたって現場を率いてきた技術者。一方で、岩澤さんは家業とは言え、別の業界から入ってきた未経験者でした。

入社した当時は苦労したことや、そもそも継ぐつもりのなかった会社に入ることへの抵抗はなかったのだろうか。

「入ると決めたらもうやるしかないですから。入社した時はみんな年上でしたし、怒られたりもしました。でもそんなの気にしてられないですし、自分のプライドよりも何とか教えてもらって早く覚えないと、自分で決めていくようにしていかないとと思って覚悟してやってました」

「技術面では、今もたまに現場に入りますが、現場を少ししか経験していないので技術もそれほどなく、毎日やってる技術者には勝てないので、チームの中でもメインの仕事とサブの仕事がある中で、メインはやらないしやれないからみんなに任せています」

今の岩澤さんの役目は、経営者として現場がしっかりと回るようにすること。

サラリーマン時代の経験を活かした、工場の経営的なことから労務や総務、メディアの取材対応はもちろん、あらゆる部門で人手が不足していることもあり、現場の生産補助、出荷管理、原料や資材の管理、営業、配達までも担い、いつパンクしてもおかしくない状況です。

「今は、全部を自分がどうにかやってますけど、さすがに無理があって、何かトラブルがあった時のためにも新しい方を増やしていきたいです。内部的な組織も大きく変えようと思っていて、敢えて現場の熟練者を外し全体を見てもらうように改革を始めています」

岩澤硝子

岩澤さんの業務だけでなく、製造現場も仕事の依頼が年々増えており、常にスケジュールはパンパン。やむなく断ることも少なくないと言います。

製造スケジュールが特に立て込み始めたのは、岩澤さんが会社を引き継いだ2018年頃から。工場の一階にある倉庫には、多い時で加工を待つ醤油さしが一万個以上も積み上げられています。

依頼が増えた要因としては、他のガラス工場の廃業したことにより、仕事が流れ込んできたことが挙げられます。

「去年の6月くらいに工場が減り、都内で頼みやすく幅広くできる工場ということで仕事が増えました。全部はできないので断るものもありますが、経験からすると必ず今後は受注量が減っていくことは分かってるので、新規もやらないといけないんですが、今はここ20~30年の中でも一番のパンク状態です」

20~100名ほどの規模で自社工場を持ち、食器をメインに手づくりする会社は、今では全国で10軒ほどしかありません。

岩澤硝子もそのうちの一社で、廃業してしまった工場に頼んでいたお客さんの駆け込み寺のように仕事が集中しています。従業員はおよそ40名と、決して小さな工場ではないにも関わらず、今は製造が全く追いついていません。

岩澤硝子

それでは、ガラス工場がここまで減ってしまったのは、なぜでしょう。

その理由は、二つあります。

一つは、海外からの輸入品やオートメーション化の影響があります。安価なガラスが大量に入り売り上げを奪われてしまったこと。

そしてもう一つは、人件費や光熱費など工場を維持するための固定費があまりにも高いこと。

ガラス製造は、チーム制で現場は1チームにつき3~6人が必要です。5つほどのチームともなれば、現場だけでもそれなりの人数を要し、検査や加工も含めると、全体として相当な人件費がかかります。

一日も休むことなく稼働し続ける大きな溶解炉は、窯の心臓部である1階からガスが送り込まれ、そして2階のるつぼと呼ばれる容器をおよそ1400度に熱し、ガラスを溶かします。

良質なガラスを作るためのガラス種を作るには、24時間365日火を焚き続けなければなりません。そのため、ガス代だけで月に数百万単位の費用がかかる上に、夜勤で窯炊きを行う人件費もかかるので、現場の人数が減ったとしても、窯を維持する費用は変わりません。

売り上げが落ちて廃業するケースもあれば、工場を維持できずに倒産することもあるので、窯の維持は経営を左右してしまうほど大きく、窯をいかに有効活用していくかは、ガラス工場にとっては常に課題としてあります。

岩澤硝子

2階の現場では、大きな窯の周りを現場の方たちが慌ただしく作業し、夏はサウナのような熱さ。その過酷な環境下で、少しでも気を緩めれば怪我をしてしまうため、独特の緊張感に包まれています。

現場は、チームごとにそれぞれの窯から溶けたガラスを竿で巻き取り、そこから型へ流し込み成形。固まったガラスを冷却炉へと運び、ゆっくり時間をかけて冷やしていきます。チームの流れるような連係プレーで、次々とガラスができ上がります。

手づくりガラスは、ほとんどの工程に人の手が加わるので、一人でもペースが遅れてしまうと全体のリズムが崩れてしまうため、一瞬でも気を抜く暇はありません。チームワークで仕事をする重要さと、一人でも欠けることができない責任感を持たなければなりません。

いわゆる一人前と呼べる技術が身に付くには、どのくらいかかるのでしょうか?

「器用な人ならガラスを切って成型まで一年くらいである程度できる人もいます。ただ、トラブル対応や金型チェックまでには、やはり10~20年ないと厳しいと思います」

「この仕事は、やらないと覚えられません。チームの中でサブの仕事は少し教えればできるようになるので、それをしながら少しずつ次を覚えていってもらいます。5分や1時間の失敗なんてどうでもいいんです。とにかく失敗しても責任は会社が受けるし、どんどんやらせていいと先輩の職人たちには言っています」

すぐにメインの仕事ができるわけではないし、失敗をしてもチャレンジし続け、時間をかけて体に技術を覚えさせていく。今の先輩技術者たちもそうやって成長してきたそうです。

ベテランの技術者である、寺嶋さんにお話を伺いました。

岩澤硝子

寺嶋さんは、伝統工芸士の資格を持ち、ガラス作りに携わってもう36年にもなりますが、この仕事に携わる前は意外な仕事に就きたかったそう。

「最初は、本を作りたくて本屋になりたかったんです。でも、そういう仕事を見に行ったけど、あんまり惹かれなくて、ガラス屋を紹介してもらって見学してみたら、やってみたいなって思って始めたのがきっかけです」

そこからいくつかのガラス工場で、先輩たちの技術を盗みながら腕を磨き、岩澤硝子は3軒目。いつしかたくさんの後輩を抱えるベテランへと成長していきました。

この仕事を辞めようと思ったことはないのでしょうか?

「ありますよ。泣いたことも結構ありますからね。俺も最初は今の若い子たちみたいだったんですよ。後輩たちによく言うんだけど、悔しい想いがあったら泣いちゃえって。そうすりゃ、段階を踏んで強くなるから泣きたい時は泣いた方がいいよって」

「俺にはいい親方が付いてくれて、結構めんどう見てもらったんですよ。だから、その分ちゃんと教えていきたいなって思ってます」

岩澤硝子

現場には、常に1400度ほどに熱された窯があり、夏場は工場全体が想像を絶するほどの熱さとなり、窯に近づくと息をするのも苦しく、熱で肌がヒリヒリし顔は真っ赤に。

扇風機やクーラーが至るところに設置してあるが、それもほとんど効果がなく、常に汗が噴き出て脱水症状で倒れる人もいるほど。それもあって、工場内にはお風呂や洗濯機が用意されており、洗濯をしたりお風呂に入って帰ることもできる。そのくらいガラス作りは、熱さとの戦いです。

「熱さは一回慣れれば、自分でコントロールできるようになるし、昔は裸で休憩もできないくらいだったけど、我慢するとほんとに危ないので、今は倒れる前にちゃんと言ってくれれば休憩も取れます。ただ、火傷は必ずします。俺も慣れてるけどちょっとしたことでやっぱりするんですよ」

技術は見て覚えろと言われた時代もあり、寺嶋さんが若い頃もそうだったそうです。しかし、時代と共に見て覚えるから教わる時代へと変わってきたと言います。

岩澤硝子

「昔は、親方から見て覚えろ!真似しろ!って言われてきました。でも、今は覚えてほしいって頭があるから、アドバイスもするし、喋ってるだけで怒られてた時代もあったけど、いい品物ができてれば、別に喋っててもいいんですよ。それに、やっぱり一番いい会社は楽しいところだと思うんです。熱くて大変なところだと余計嫌になるので、そういうのも大切にしたいなって」

「あとは、いつも俺が思うのは、これでいいってのはないんです。これでいいってなっちゃうとそこで終わっちゃうから、上の立場になったけど、それ以上にいきたいっていつも思ってます。最初は、失敗する時もありますが、それはまたあとで一緒に乗り越えていけばいいんです」

技術の上達には、経験を積むしかありません。

失敗を恐れず、まずはやってみる。

続いて、一昨年入社したばかりで今まさに修行中の渡邉さんにも、お話を伺ってみました。

岩澤硝子

渡邉さんは、すみだの仕事の求人を見て、入社してくれた一人。

岐阜県の実家が窯業を営んでおり、その影響からものづくりの仕事に就きたいと他業種から転職し、岩澤硝子にやってきました。

未経験で35歳とものづくりを志すには少し遅い印象もありますが、一年経っていないとは思えないほど、急スピードで仕事を覚え、そして現場に溶け込み日々成長していると、寺嶋さんも太鼓判を押すほど。

「みなさん丁寧に教えてくれるので、厳しいところもありますけど、行き詰ったり一生懸命やってれば教えてもらえます。年齢的には遅いスタートでしたけど、ここに入ったのも縁だと思うので、気にしてないですし、この歳でも若手と言ってもらえるのがすごい助かってます」

岩澤硝子

できることよりもできないことの方がまだまだ多い渡邉さんではありますが、それでも既に現場の皆さんから必要とされているのには、技術を向上させるのと同じくらい、先輩たちとのコミュニケーションを大事にしてきたことが大きい。

それは、岩澤硝子のガラスが決して一人で作れるものではなく、息を合わせながらチームワークで作っていくものだから。

ベテランの技術者たちと渡邉さんの人間関係を見ていると、一日も早くチームの一員になれるよう誰よりも努力をしてきたことが伝わってきます。

「一人で作る仕事ではないので、やっぱり協調性だと思っています。仕事が終わった後は、皆さんリラックスしているので、仕事中に聞けなかったことを食堂で飲みながら聞いたり、そういうのの積み重ねなのかなって思います」

岩澤硝子

午前中の製造がひと段落すると、区切りのいいチームから仕事を切り上げ、工場の隣に併設された事務所二階にある食堂で昼食を取ります。食堂で一緒に食事をし、午後のスタートまでは畳が敷かれた更衣室で休んだり、冬は窯の前に段ボールを敷き昼寝をすることもあるそうです。

そして、一日の作業が終わると、さきほどまで厳しい表情で作業していた顔も緩み、みんなで一杯飲みながら一日の労をねぎらう。うまくいく日もあればそうでない日もあるはずです。緊張感のある現場だからこそ、休憩時間や仕事が終わった後に、従業員同士が交流することは、現場でのチームワーク作りにおいて重要なことなのかもしれません。

過酷な熱さの中でひたすら同じ作業の繰り返しのガラス作りは、肉体的には決して楽な仕事ではありません。その日の製造が終わった時には、体中の水分が出てしまうほど汗だくになります。

そんな過酷な環境だからこそ、メリハリは特に大事にしており、残業はほとんどなく、特に夏は休憩もしっかりと取る。他の仕事もやりたいという方は、アルバイトなど副業も可能な自由な環境があり、意外にも仕事の厳しさを理由に離職する方は少ないと言います。

チームワークが非常に重要なガラス作りおいて、岩澤さんはどのような方を求めていますか?

「一番は協調性。ガッツとかはもちろん欲しいですけど、チームに入れないと難しいです。いくら腕があっても一人で孤立してる人はどうやってもうまくいかないですし。まずはみんなと一緒にできることが一番だと思います。ほんとにド素人でいいし、ガラスの知識もなくていいので、ガッツがあってみんなでやりたい、みんなでやりますって方なら育てていきたいです」

岩澤硝子

岩澤さんが会社を引き継いで約2年。ある変化が現場に起こり始めています。

それは、先代が現場の技術者で教えるよりも自分でやってしまうタイプだったこともあり、下がなかなか育たなかった。しかし、技術者ではない岩澤さんが工場を引き継いだことで、ある程度は現場に任せる形に変えました。

「困った時はもちろん相談に乗りますけど、時間がかかっても任せて自分でやらせます。そうするとみんな考えるんです。昔は、とにかく失敗しても数をあげろみたいな世界でしたけど、今はそれだと品質が通りません。だったらきちんとやった方がいいので、考えながらみんなやってくれるようになって、昔より品質が良くなってると思います」

しかし、その品質のガラスを作れる豊富な経験を持った技術者は、70を超える方もいて体力的にも現場を離れる日が近づいてしまっています。技術の継承が非常に急務な状況にあることはもちろん、このチーム制のガラス作りを維持していくには、人手がどうしても足りません。

「まだまだ勘の世界で、どうしても口だけでは言い表せない部分がいっぱいあります。窯は温度が1度違うとか、バーナーの場所が1cm違う、角度が1度違う。誰かがちょっと触っただけで温度は変わるし、溶け方も違う。同じ原料を溶かしても違うんです。だから、人がいないからとアルバイトを雇ってしまうと、次の日にガラスを作れなくなるシビアな世界なんです」

岩澤硝子

窯を維持しながら、次の技術者も育てていく。工場を存続していくのは決して簡単なことではありません。

それでも手作りでガラスを作り続ける魅力はどこにあるのでしょうか。

「ガラスには、レンズ、瓶、試験管、ビーカーなどがありますが、うちは食器屋です。量販店さんやショッピングモールなどに行けば並んでいたり、居酒屋さんやファミレスに行けばうちで作ったものが出てくる。それを家族や友達に言えるのってなかなか他にはない部分だと思います」

「自分が作ったガラスが、最終商品になって店頭に並び、見れて買ってもらって使ってもらえる。芸術品のようなものではなく、低価格や中価格帯に入るものでいろんな人が持っている日用品、それが一番いいところなのかなと思います」

チームで一つのものを作る達成感、そして誰かに使ってもらえる喜び。
ものづくりに携わる方にとって、どちらも嬉しい瞬間かもしれません。

時間はかかるかもしれませんが、突き詰めた先にその両方をきっとここでは味わえるはずです。

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