一丁入魂 三善豆腐工房
こちらの求人は募集が終了しました。
ご応募ありがとうございました。
「あと数年したら、たぶん墨田区内でも自分たちで作って販売する豆腐屋さんって、1、2軒になってしまいます。でも、それは豆腐屋さんに限らず肉屋さん、魚屋さんもそうです。」
かつて豆腐屋さんは、全国で5万軒ほどあった。しかし今では8000軒ほどに減り、墨田区でも100軒近くあった豆腐屋さんは、残り8軒までになってしまった。しかも、ほとんどが70代以上だ。
日本人で、豆腐を食べたことがないという人は、ほとんどいないと思う。しかし、昔は当たり前にあった豆腐屋さんが姿を消し、手作りで作られた豆腐を食べたことがない人は増えている。
創業48年、墨田区で昔から地域に愛されてきた「有限会社 三善豆腐工房」で、豆腐職人になりたい方を募集されています。
三善豆腐工房が、墨田区で豆腐屋さんを始めたのは、昭和42年のことだ。
元々は、先代が墨田区で豆腐屋さんをされていた方の後を引き継ぐ形で始めたのが始まりで、三善豆腐という名前はその頃の名残なんだそう。
現在は、墨田区京島に新しい工場を建て、こちらで毎朝丁寧に作られた豆腐が、キラキラ橘商店街と砂町銀座商店街にあるお店や区内にある小学校や保育園などに卸されている。
午前6時頃に毎日の製造は始まる。
まだ少し薄暗い中、工場へお邪魔した。
静まり返った工場内には、豆腐の香りが微かにしている。
製造を開始する前、使う道具や容器には全て熱湯をかけて消毒行う。床は水浸しになり、それまでひんやりと冷えきっていた工場は、一気に湯気で温まりあっという間にサウナのような気温と湿度になる。そこにいるだけで汗ばむような暑さだ。
ここから、豆腐を作る工程を1日に10~15回程度、繰り返し行われる。
根気のいる、長い一日の始まりだ。
現役の豆腐職人である、社長の平田慎吾さんにお話を伺った。
平田さんがここを継いだのは、大学を出て店舗の設計や施工に関わる会社を6年経験した後、30歳の時だ。
「サラリーマンを続けて部長とか課長になっていくのか、自分で何かやった方がいいのかとか考えて、ちょうど30の区切りで辞めようと。だから、その時は豆腐屋をやろうかどうかはあやふやでした。」
「僕が大学出た時はバブルだったし、ほんと就職とか楽な時代でした。だから、こんな苦労して100円ぐらいの豆腐を売ってって感覚がなかったので、豆腐屋を継ごうってのはぜんぜんなかったんです。」
「でも、どんな仕事でも価値があって工夫すれば続けていくこともできるし、夢を持ってやれるってことが分かりました。そして戻んなきゃって気持ちがあった時に、親父の体調と30歳という年齢が重なって実家に戻ってきたんです。」
「商売やってるところって、どこも忙しかったから親と遊んでもらうって記憶があまりなくて、親父との一番の思い出と言えば、行商箱を自転車の後ろに積んで、笛を吹きながら売ってたんですね。それによくついて行って、そこでお菓子もらったりお小遣いくれたりするのが楽しみでした。」
「昔は生きるのに必死だったせいもあるのかもしれないけど、そうゆうのがあっていつか戻ってやんなきゃなっていう想いがあったから、たぶん今やってんだと思います。」
ただ平田さんが実家に戻っても、すぐにはこれだけでは食べていけない状況だった。
自分たちが食べていく、生活していくために規模を拡大し、人を雇用するようになったそうだ。
「これまでは、狭い工場で家族とパートさんだけでやっていたので、人を雇えるような環境ではありませんでした。ただ、豆腐屋さんを続けていく上で両親も年老いていくし、家族だけでやっていくのは難しかったので、自社工場を作って従業員さんやパートさんに力を貸してもらわないといけないと思ったんです。」
ただ、想像を超える重労働に辞める方も多いそうだが、平田さんはどんな方を求めているんだろう。
「この仕事って、どうしてもここで働きたいってピンポイントで来る方じゃないとなかなか務まらない仕事だと思います。だから、まずは現場を見て感じてもらうようにしています。」
「でも、最近は条件の方がすごく多いのも現実で、実際に現場をみてやっぱり難しいって諦める方もいらっしゃいます。そういった方はうちは向いてないのかなと思うんです。そういった方に合わせてできる仕事でもありませんし、条件の方とはやっぱりギャップがあるんですよ。」
パンやスイーツと違って、豆腐は経験者が少ない。なぜなら、豆腐作りを学べる学校はないからだ。ここでしか身に付けられない、経験できないことがたくさんあるように思う。
「この仕事を通じて技術を身に着け、自分自身の将来の糧にして行こうという方。やっぱり自分で身に着けていかないと身につかないし、身に付ければきちんと職業として成り立たせることもできるので、自分でモノを作ってお客様に販売して喜んでもらうということを幸せと感じれる方ですね。」
三善豆腐工房と言えば、カラフルな車での移動販売が有名だ。始めたきっかけは?
「自分で地域の物を直接販売するようなことをしたいって、当時大学院生だった子がやってきて、『じゃあ試しにやってみたら?』ってことで、彼らが移動販売を始めました。3年くらい一生懸命やってくれて、それを社員が引き継いだ形ですね。」
「だんだん年取ってくるとね、若い人から教えられないと分かんないんですよ。だから販売の方は、ある程度やってくれる社員に任せていってますね。」
ここで働く従業員は、正社員が2名。そして、ここを長年支えているパートさんが9名。
移動販売のデコカーも、従業員の発案だそうだ。
「基本的には一人前の豆腐職人になってほしいんです。それは作るだけじゃないし、売るだけじゃない、できるんだったら自分で将来独立するような人を作りたいと思ってるんで、両方覚えてほしい。作る方も売る方もやりがいがあると思うんですよ。自分がやっててそうだったから。自分で作ってお客さんの声を聞いて、それが作る方にも返ってくるもんだと思いますから。」
この仕事の大変なところは?
「豆腐作りの大変なところは、工程が長いのと作業性が悪いんですね、生産性が悪いというか。毎日大豆からなんですよ。擦り潰して、絞って、にがりを加えて、型に入れて、押して、切って、パック詰めして、1時間ほど冷却する。要はスタートしてから商品として並ぶまでに3時間くらいかかるんですよ。そして、利益が正直言って上がりにくく、仕事の割に事業として成り立たせるのが難しいんですよ。それが僕らも一番苦労しているところですね。」
お豆腐屋さんの朝が早いのは、工程が長く生産性が悪いため、逆算して考えるとどうしても朝早くに始めないとその日の分が作れない。
「あとは、単純に体を動かしているから体力的なところですかね。煮たり焼いたりして火傷があったり、それに全て重いんですよ。豆腐一つの塊だと40kgくらいあるので。」
商品が店頭に並ぶ昼前に、キラキラ橘商店街にある店舗に伺ってみた。
平田さんのお母さんが出迎えてくれ、一つ一つ丁寧に豆腐のことを説明してくれる。
今、三善豆腐工房の豆腐を食べられるのは限られたお店と移動販売のみだ。
もっと多くの方に食べて欲しいとは思わないのだろうか。
「今が正直作れる範囲なんですよ。それ以上となると作り方から考えないといけないですし、父親のやり方をベースとしたやり方を大切にしたいと思っています。ずっと地元でやらせてもらってるので、地域の方が毎日おいしい豆腐を食べられる環境というのが、大事かなと思っています。その範囲で経営が成り立って、働く人たちがきちんとやっていけて、満足できる仕事づくりができればいいと思っています。」
「それに、スーパーとかへ卸すのってやっぱりつまんないんですよ。お客さんの顔が見えないというか、なんで売れたか売れないかが分からない。自分なりにいい物を作ろうと思って一生懸命やってて、その結果が売り上げだけじゃなくて、食べた方の声がないとやりがい感じないんですよ。」
元々豆腐は、お米文化の補助的な役割で、お米で炭水化物を取り、足りないたんぱく質を大豆から取るという生活を日本人はしていた。しかし、お米の消費量が半分になり、単純に豆腐も半分になった。
豆腐はお米を食べてはじめて食べてもらうのが基本で、食生活が変わり他にも食べるものがたくさんある今、都心部になるほど一世帯あたりの消費量が少ないそうだ。
「今は機械化されてない方が少ないですね。大手の物はいわゆる充填豆腐と呼ばれる、ほとんどが機械化されたものです。できたての豆乳ににがりを加えて固めるんですが、にがりの凝固反応がすごい早いし、うちは天然のにがりで作っているので、技術や経験が必要になります。これが非常に難しい作業なんです。」
「ただ、冷却すると固まらないんですね。それを利用して充填豆腐ってのは、熱い豆乳を一度冷やして冷えた中ににがりを加え、その状態でパックをしてあとから過熱して固めるんです。そうすると何がいいかというと、人が全くいらなくて機械化できるんです。」
そうした機械化により人件費がかからず、一丁30円というような値段で豆腐が売られるようになってしまった。
「豆腐屋さんが今大変なのは、価格が低いんですね。うちは200円で、一般的なスーパーのと比べると高いんですが、決して我々の作業とか手間からすると決して高くないんですよ。それが豆腐屋さんが減ってる原因でもあるんですね。」
実際食べてみて、確かにスーパーで売られている豆腐とは、味も食感も風味も驚くほど違う。なぜこんなにも違うんだろう。
「大豆といっても国内でも1000種類くらいあって、その中でも生産者と一緒に作り上げた大豆を使っています。同じ品種でも作る人によって全く違うし、僕はその土地でしかない在来種を扱わせてもらってます。」
「ただ単に商品としてだけでなく、『大豆を作る生産者』『豆腐の作り手』『お客さん』という繋がりの中で、お互いの顔が見える豆腐の方がいいし、作ってる方と会ってその方の物で作ると作り甲斐があるんですよ。やっぱり一生懸命作ってる方の大豆はいいんですよ。」
「きっとお客さんも同じだろうなって。誰が作った豆腐で誰が作った大豆か分かった方が、きっとおいしく感じるだろうと思います。それはお客さんのためって言うより、半分は自分のためです。自分がその方が仕事が楽しいんで。」
「それに、工程一個一個で我々は他にないものが作れます。でも、おいしい豆腐を作るコツってないんですよ。一個一個の工程をきちんと丁寧にやるってことしかない。それが最高の物を作る手段で、シンプルだから豆腐は難しいんだと思います。ごまかしがきかないんですよ。」
平田さんは、豆腐職人としての経歴は20年。
一人前になるにはどのくらいかかるんだろう。
「本当に身に着けようと思えば、基本的なことは2年くらいで身に着けられるかなと思います。ただ、あとは自分で考えてやるしかないんですよ。」
「同じ機械でも癖が違ったり、国産大豆と言っても何種類もあってそれぞれに癖があります。しかも大豆ってのは1年に1回しか収穫できなくて、1年の間で性質が変わってくるので、それに合わせた作り方をしないといけません。自分の目で見て、自分で大豆を選んで経験しないと分からないんですよ。」
「だから、豆腐は誰でも作れるんですよ。いいものを作るかどうかってのに時間がかかり、そこから先は自分で工夫ですね。」
夜になり、移動販売を終えた従業員さんが帰ってきた。
ここで5年前から働く伊沢さんにも、お話を聞かせてもらった。
「豆腐職人になりたかったわけでなく、モノづくりがしたかったんです。」
と、特に最初入社する時は、豆腐ということは意識してなかったそうだ。今は主に移動販売と製造、そして土日は交代で砂町銀座の店舗での販売を行っている。
この仕事の大変なところは?
「とにかく長い時間やるのが、豆腐屋さんの特徴でもあって、始まるとなかなか手が止められないんです。ずっとやってると集中力が落ちてぼーっとすることもあります。」
「それと、毎回行ってるところでも売れなかったらって不安はありますね。まあそれがいいプレッシャーにはなっていますが、毎回来てくださる方がいらっしゃるおかげで成り立ってます。」
どういった時にやりがいを感じますか?
「どんなに製造の方で体が疲れても、人と接するところで元気をもらうっていうか、その日に自分で作ったものをその日に自分で売りに行くっていうのは、なかなかないと思うんです。だから、お客さんに会いに行くってことがないと、物足りないかもしれません。」
伊沢さんから見て、平田さんはどうですか?
「あの通りかなり柔和な感じがして、いい親父って感じがしますが、製造中は鬼のような感じになってますよ(笑)本人は集中してるからだと思うんですけど、まあでもそれが周りにいい緊張感を与えてると思います。」
どんな方と一緒に働きたいですか?
「責任感を持って最後まで自分の任務を全うするというか、やり遂げる人ですね。中途半端に投げ出さず、言われたことだけやるんじゃなくて、率先して何かやって欲しいと思います。」
平田さんに、今後の展望を聞かせてもらった。
「きちんとこの仕事を残していきたいと思っています。我々が想いを込めて丁寧に作った商品で、豆腐一丁の価値をあげたいんです。」
「いい豆腐を作るのはもちろん、豆腐の価値を上げる活動なり仕事のやりかたと同時に、豆乳やおからを使った付加価値のある商品を作って、豆腐屋さんの事業として利益をあがるようにしていかないと、自分の子供とか次の世代が同じように苦労して、次の世代に豆腐屋を残せないのかなと思っています。」
「じゃないとほんとにいい豆腐ってなくなってしまいます。スーパーにある量産されたものだけじゃつまらないじゃないですか。それは豊かではないと思います。我々みたいなのとスーパーみたいなのもあって然るべきなのかなと」
「残すのは非常に難しい状況ではありますが、僕もこれを20年やらせてもらってますから、会社運営もそうですし、豆腐って仕事を今後も続けていけるような業界としての環境を作っていきたいですね。」
いつの間にかなくなっていくものは多い。手作りの豆腐もその一つだ。
でも、必死に次の世代へ残そうと奮闘する豆腐職人が墨田にはいる。
一緒に豆腐屋さんと豆腐職人さんを存続させていきたい人、ぜひ応募してみてください。